昭和45年03月04日 朝の御理解
御理解 第12節
「神に会おうと思えば、庭の口を外へ出てみよ。空が神、下が神。」
お道の信心で言う神観、神を観る所謂天地そのものを神と。又神の姿と観ると言った様に説いてある訳ですが、いわゆるこの11節でも又10節でも同なじ事が言えると思うですね。「神が社に入ったら此の世が闇に成る。」とか「神は天地の守じゃから、離れる事は出来ぬぞ。」とか「神が社へ入っては、この世が闇に成る。」とか又は「神は向こう倍力の徳を授ける。」と。まあ10節、11節、12節は神観ですねえ。
けれども只その金光様のご信心では、天地そのものを神様と言うのかと。なるほどその天地の恩恵に浴すると云う事を、「天地の守じゃから、離れる事は出来ぬ。」ぞと云うのだなと解っただけでは、何にも成らんので御座いますからね。確かに神観です。けれども、神を其処に観るだけでは、そ云うふうに理解しただけではいけない。成る程神様はこの世の守じゃなあと心の中に感じられる。
成る程神様に会おうと思えば庭の口を外へでてみよ。空が神下が神と仰せられるが、本当に生き生きと、そこに神様の姿を其処から感じ取らせて頂くと言う事が、信心なのですから。分かる事は信心じゃない。自分の心で頂くと言う事。例えて言うと神は天地の守じゃから、離れる事、お守り下さってあるのだから。となるほどそうなんだ。けれど昨日の朝の御理解を頂いておりますと、ありましたですね「あれ是れと、どうしようかと思いためらう心に、神は行かぬ。」と、
云う様な御理解なんかを頂きますと、此処んところがはっきり解って来るですね。成る程、神様は、天地の守じゃから、離れる事は出来ないとおおせられる神様なのだけれども、いわゆる、こちらの信なければですねえ。人間氏子の信なければどうにも出来ない。あれ是れと迷うて居る様な心には神は行かぬ。とおおせられる。どっからか来なさると言う感じですけどねえ。
それはどう言う事かと言うと、成程神様は天地の守じゃから、離れる事は出来なさらんけれども、其処に生き生きとした働きを感ずる事が出来んと言う事なんです。迷うたりあれ是れとしておる心には、だから神様を感じとる事は出来ないわけです。ですからいかに決断と言うか決心と言うかね。神様を信じて疑わんと言うかそう云うものが、信心の上によって鍛えられた上にも、鍛えられなければならないと云う事が解ります。
そこに稽古と云う事が感じられますねえ。今日私は十二節の「神に会おうと思えば、庭に口を外へ出てみよ。空が神下が神。」と仰せられます。その会うと云うのではなくて、神を感じると言うふうに、本当に実感的に成る程神様じゃあなあ、神様のお姿じゃなあと、こう「会う」感じがするのと、例えばね神様を心に感じる。だから神様をその生き生きとした心に感じる為には「庭の口を外にでてみよ」とまあ簡単な事なんです。
外へ出てみりゃあそこにもう天地の生きた姿があると、云う様にです。私ども此処ん所を、今日はですねちょっと自分の心をね。有り難い事へ使うてみよと。自分の心をちょっと有り難い方にちょっと心を使うてみよと、其処にはもうすでにです。神を感ずる事が出来る、神に会う事がで出来と云う様に、神を感ずる事が出来ると云うふうに今日は十二節から、頂いて頂きたいと思うんです。
昨夜此処を下りてすぐあの、テレビがあのあれはほんのちょっと何分間でしたから、あれはなんとか、天地茂とか云う俳優が居りますねえ。あの人が出て居ります映画でしたがこんな事を言って居りますねえ、セリフの中に「人間の運命と云うものはどうにも出来ない。なにか解らないけれども目に見えない、一つのあや糸の様なもので支配されて居るんだと、それを神と云うもかも知れないと言って居りますねえ。
人間の運命と云うものは、自分ではどうにも出来ないと云われます。なにか目には見えないあや又は糸の様なもので、操り人形の様に操つられて居るんだと。それを神と云うもかもしれない。と言って居りますねえ。成る程やはり神ですねえ、私共もそれを神の働きと思うんです。其処で此処の神様はどう云う事に成るかと云うと「この方の道は喜びで開けた道じゃから、喜びで苦労はさせん」と仰る。
その事の原理と云うかね。それを追求して見るとね、喜びの心には喜びの事が起こる。喜びの芽がでる。喜びの花が咲く。喜びの実が実ると云う様にそのそう云う一つの掟と云うか、法則と云うものが有るのだと。だから人間本当に自分の運命と云うものは、自分ではどうにも出来んと其処までもし感じたらです。その運命を支配される神の心と云うものを私共が解らせてもろうて、その神の心に添う様な生き方に成ればです。
その神そのものが、人間の真の幸福を願うて居って下さると、教祖は仰って下さるのですから。その神の心に通う、適う心に成らして頂く稽古をさせてもらうと云う事がです、より良い運命が展開して来ると云う事も云えますね。運命と云うものは、もうそう定められたと云うものではなくて、どうにも出来ない、そう云う働きを持って左右されるなら、左右されるのも神と云うならばです。
その左右される神の性質、本質と云うものをです。私共が教祖の御教えによって、解らせてもらう時ですね。いわゆる我が子の可愛いさを知って、神の氏子をお守り下さる事を悟れと。信心が有ろうが、無かろうが、神は、天地の守じゃから、離れる事は出来んと云う程しに、守をして居って下さるのだけれども、私共が我が子の可愛さを知って、神の私どもの上を守って居って下さって有る事を悟らして頂く時です。
いわゆる私どもが又、親の心を解ってと云う事に成る訳です。成る程神様は、此の様な切実な思いで、私共の事を思うて居って下さるのだと解る所から、その思いに添うて行こうとする、そう云う働きが私は信心だと思うし、そう云う道を付けて下さるのが教えだと、こう思うのです。ですから私共が、そのうどうかして神様にお喜び下さる心を育てて行こうと云う気に成らなきゃならんと云う事が解りますね。
「おかげは 和賀心にあり」ですからね「今月今日で 一心に頼めい」ですから。ですから本当に私共は、今月今日只今をね。そう云う心を祈り祈って願い願って、居らなければならないと云う事が解ります。厳しくその所を教えて下さったのが、今度の「おかげの泉」の扉の所に御座いますね「神様でも、御霊様でも同じ、真心と云うのは一本勝負、やり直しは利きません。」と云うのです。
神様が喜んで下さる、真心を神様が喜んで下さるんだとまあ解るでしょう。信心させて頂いたら真心に成れ、真心に成れとこう云われる。その真心と云うのはね。もう一本勝負、やり直しがきかん。是れは神様にでも御霊様にでも、又是れは人間にでもと言う事が云えるでしょう。ねえ。昨夜夜のご祈念を堀さんで頂こうと思よりましたら、田中さんが其処に田中さんがお参りに成りまして、先生この御本を買わして頂いて。
主人に読んでもらおうと思うて、主人に是れを読んで下さいと云うてまあ見せられた、それで是れを開けられてから、此処ん所を読まれて、言われるんですね。「神様も御霊様も同じ、真心と云うものは一本勝負、やり直しは利きませんと言うなら、お前信心はもうどんこん出来んじゃないかと。やり直しの出来んごたるならお前や、そげん毎日参らんでも良かろうもん。」と云う意味の事を云われるのです。
「だからどう答えていいか解りませんでした。」と、こう言われる。皆さんは是れで何かそう云うふうな物を感じられませんでしたか。「一本勝負」ね「やりなおしは利きません」 確かにですね、真心と云うものは、神様へ向けられた時、御霊様へ向けられた時、もう一本勝負是れは神様、日々の生活の中に有る事でもそうです。真心で行うと云う事はですねえ。だから一本勝負なんです。
だからやり損のうたから、もう一ぺん勝負させて下さいと云う訳には、いかんのです。もう、やり直しは利きません。と云う事はどう云う事かと云うと、私ども日々信心生活させて頂く者は、何事にも真心(しんじん)に成れよと、教えられるでしょうが。何事も真心に成れよと書いて有りますはね。だから何をするにも真心に成れよ、ね。何もするにも真心に成れよ、いい加減な事は許されない。
ですから其処で何時も私共がですね。真剣であれと云う事なのです。または一生懸命で有れと云う事。だから此処ん所をですねえ。真剣で有れとか、一生懸命で有れと云う事を。云うなふうに申しますと、何かこう何時も気張り切っておかねば成らん様に感じます。けれどもそう云う此のじゃあない。そう云うものじゃあないんです。其処で私共が段々、段々、信心を進めて参りましてね。
それで今日も又此の是れですね、是れ是ち云わなければ行きませんがね、私は昨日勝彦から怒られたんですよ、お父さんな誰でん彼でん是れを見せちから、是れはぁた極秘のっちゃから、他にちったら大変ですよち他に見せたり、誰でん言うちゃいかんですよち言うたですもん。そんなこつね、そばってんその極秘ん事ば毎日皆に言うち、聞かすけんかえって皆んな喜ぶとじゃけん。
でぇげんの私が申しますけど、けどやっぱり他の所じゃ言うちゃいけんとですよね。皆様はそう云うものを是れから頂かれる訳なんですけれどね。そしたらねあの神格の事を頂きました、今日神格もね例えば一乃弟子とか双葉の氏子とか、金子大明神とか、金光大権現とか、金光大神とか、言った様にけれども本当はまあだ、もっともっとあるのですよ。そしてその意味がずうっと書いちゃる。
例えば一乃弟子なんかと云うのは、師匠の信心を本当に受け様と言う思う者は、全てが一乃弟子でした。皆さんでも私を例えば師匠として、私の信心を頂こうと本気に成れば、皆さんでも、すぐに一乃弟子に成れる訳です。この一乃弟子が神格の一番初めのものですね。ただ、おかげを受け様と云った様なもんじゃないですよ。だから師匠の信心を頂こうと、それをあの教祖は一乃弟子と、こう呼んで居られます。
ですから私どもがそう云う様にですねえ。神格と云った様なものが、段々こう出来て参ります。信心させてもらうと。私はだから此処で、本当よその方が来たら不信に思うだろうと思う位に「親先生」と云う事を申しましょう。「親先生」。是れは私自身の事であって、実は私自身の事じゃないのです。大坪総一郎と云うのは、もうこりゃ何も私お届け皆さん私のお届け帳をご覧に成るといいのですけれども。
まず親教会の三井教会、荒巻久人先生、それから奥様の荒巻フミ乃先生、それから、合楽教会、その次に大坪総一郎とお届けさせて頂く。もう大坪総一郎と云うのは、もう出来るだけ小さく小さく書いとります。お届け帳に必ず。なぜって自分と云う者はまあだ、まあだで小さく書かれる位の自分だと言う事を何時でも自覚して居るからです。けれどもこれが、親先生と云う事に成ったら、私がもう絶対のものです。
親先生がいい御座るとじゃからとね。だから親先生を大事にしろと云う事は、大坪総一郎を大事にしろと云う事じゃないのだと。其処で私は大坪総一郎と云うならば、親先生と云うものを私は区別しています。ね。金光大神もそうでしょうが。ご自分の事を仰る時は、「無学の百姓で何んにも解からず」と、こう仰って居る。けれども一度「金光大神」と云う事に成ったら、金光大神の威を持って仰って居られます。
金光大神の格を持って仰ゃって居られますね。私共はだから云うなら、無学の商人です。何も解らない。けれどもです。此処に「親先生」と云う一つの格、是れは私が「親先生と言え」と云ったのではない。云うならば皆さんもっと云うならば、神様がそう言わしめて居られるのです。ですから私共はその様にですよ。だんだん自分の神格と云った様なものをですね。ま感じると云うかその神格によるその感じ方に依ってです。
喜びが違う。有り難いと思う心が違うのです。同なぁじものを頂きましてもですね。例えば、食べ物でも、同じものを頂きましてもですね。やはり格を頂かれた人の有り難いと云うのは、それだけ違うです。それを私一番痛感したのはもう十何年も前でしたかね。ご本部参拝月参りをさせてもらいよる時、丁度阿倍野の教会の団参に会いました。お届けしようと思って参ります所に、もうお広前一杯いの、埋まる程しの団体参拝が御座いました。何処の団体参拝じゃろうかと思いよったら、阿倍野の先生でした。
いわゆる阿倍野の取り巻きの先生方が、阿倍野は女の先生ですが、その先生を先頭にずっと、信者がお広前いっぱいに成って。此処ん所をですね。こう云う大きなこう云う大きな箱だったがあれがお初穂だったでしょうね。それをうやうやしく捧げ持つ様にしてね、金光様の前に出られましてね。そしてそれをお供えなさいます。そしてその御初穂をお供えなさってその阿倍野の先生が、金光様にお取次ぎを願われました。
私共はそれこそ瞬きもせずに、どの様なお取次ぎをされるだろうかと思ってから、それこそそこ此の辺にに合楽の、樺目の者は居りましたから、それを見せて頂いて居りました。そしたらたった一言「金光様、おかげを頂きまして有り難う御座います。」 と言う、一言であった。もうその「金光様、おかげを頂きまして有り難う御座います( 笑 )、ことでしたね。だからそのとき一緒にお参りし合わせた人に申しました。
「あれだけの団体参拝が、千人もあると云う、阿倍野が参るとお広前が一杯に成ると云う位の、御ひれいを頂かれて居られるが、あの阿倍野の先生の、『金光様、有り難う御座います。』と仰った、あの『有り難う御座います。』の中から、是れだけ沢山の人が助かって行きよる。」と私は申しました。ですから違うでしょうが。私共の言いよる有難う御座いますと。阿倍野の先生の仰る、有難う御座います。
の中身が違うですから私が言う、私どんの信心の神格と言った様なものが段々出来て来る。と云う事はです同んなじ例えば物を頂きましても、同じ物に対する有難う御座いますが違うて来るのです。ですから本当に千万斤の重みを持った「有難うなければならん事が解ります。だからこそ、千万斤に値する程しのおかげが、伴うて来るのです。昨年の有り難う御座いますと、今年の有り難う御座いますは、違わにゃいけんのです。
そうですね。其処でですなら神様でも御霊様でも同じ。真心と云うのは一本勝負だと。やり直しは利きません。今日は其処の所を「信心する者は、何事にも真心(しんじん)成れよ」と。信心する者は何事にも真心に成れよと。ですからその一本勝負の思いと云うものがなからにゃいかん。今のは言い損のうた、やり損のうたからもう一ぺんと云う訳にはいかんね。一本勝負ですから。ですからもうやり直しは利きません。だからまた次の事の柄なら事柄に直面する時にです。また次の事を言う時にです。
一本勝負の積りで、言うて行ったらいい、行うて云ったらいいと云う事に成るのです。その事は、もうおしまいです。やり直しは利きません。と云う程しに、真心と云うものは、いわゆる真剣そのもの、だから真剣なんです、もちろん一生懸命のもの。と云うて一生懸命とか、真剣とか云うものは、例えばなら本当の例えば真剣勝負をする様なね、其れこそ、汗がにじむ様な、そんなに張り詰めたものでは無くて信心で云う、例えば真心と云うものは、そんなものじゃあ無いと云う事。
其処で私共がですねえ。そう云う例えば、真心をいよいよ追求して参りまして、まあ一本勝負の積りで、日々自分の真心と云うものを、より重みの有ると云うか、素晴らしいものにして行く稽古が、信心生活と云うても良い訳です。其処で私共の心に神を感ずるね。だからその神を感ずると云う事でも、今申しました様に有り難いと云う事でも、その一つの信心に依って、その度合いが違う様にですね。神を感ずるでも素晴らしい神を、感じれる為の、修行がいると云う事になる。
昨夜私はもうやがて十二時と云う頃、休んで居りましたらお客さんを受けました。それから、又、起きまして、いろいろお相手をしよりましたから、もうやがて一時もやんがて一時を過ぎて居りましたでしよう。それから休ませて頂いたそれから客殿に床を取らせて休んで頂いた。それからお風呂もお湯が沸いて居りますから、お湯が出ようりますからお入り下さい。と言うてお風呂も公子さんに言うて、ちょっとさせましてね。
それから休みました。ですからお客さん達は二人ながら客殿に行かれまして、休んで私は枕元の電気を消さなければ休みきらんですもん 大体が消して休ませて頂きましたら、ふっと、私が気が付かして頂いた事は、(はぁ今、お客さん達が、お風呂に入っとる時間かもしれない)ですからあのお風呂のガラス越しにですね。丁度私の休んで居る所を見ると、杉木立を通して、あの家が見える訳です、ですからあすこに、ほんのりと明かりが灯いてとね。もう実に気分がいいんです。
もう杉木立を通して向こうの方に何かが、有ってね真っ暗墨だったら興がない訳ですね。ですからそれをちょっと思うたから、私枕元の電気を又点けました。成る程お客さんは、それを見ておるか、感じておるかは判りませんよ。けれども私の心がです。たとえばそうさせて頂かなければ居れない心だった。さあそうしたらね。感動が始まった。その事に。だから私は思いました。自分が本当に喜びたいと思うならね。
もう人が喜ぶ様な事を、何時も思い続けておかねばならぬと云う事ですよ。それと反対に、あれの心を突くごと刺すごと、云う様な事を思うとるでしょうが口には言わんでも、又あれがあん奴がと思うとるです。是れで神を感じるなんて事は絶対出来ません。だから神を何時も自分の心に感じる人はです、何時も神さまを思うて居ります。云うなら神さまの神心と申しますか、それで何時も人が喜びさえすればと。
いわゆる教祖のお言葉を借りると、「人が助かる事さえ出来れば」と云う事ばかりを思うておる。人が喜ぶと云う事ばかりを思うて居る。だから其処にはもう全然条件がない。私が、あの人が喜ぶ様な事をしてやったり言うてやったりしたら、相手も喜ぶじゃろう、有り難う御座いますと言うじゃろう。言いもせんなら私がこげんしてやっとるとにと言ことに成って、そう云うものじゃないです。
今日私が言うのは、いわゆるもう無条件のものです。無条件に人が喜ぶ様に、喜ぶ様にと云う様なです。思いを心に持ち続ける事がね。自分自身が喜べるということなんです。しかもその喜びはね、もう私の喜びではなくて神の喜びだ。しかもたった枕元の電気を。言わばつけてさしあげたことになりますよね、風呂に入っておる人のために。そんなら風呂に入っておる人はそれを感じる、感じないはわからないのすよ。
けれどもその心使いをね。神さまが喜んで下さるのでしょうか、いわゆる感動になる。それこそ枕がぬれる位に感激するんです。ですからね。たとえばそのことでもそうですよ。このごろの、あのことで感動したから、今夜もいっちょ電気をつけましょうと言うて、つけたからと云うて、心にいわば喜びが湧くということではない。そういうところね。たとえば、一本勝負といったようなことがいえますね。
もうその次の思いはそれよりか、もっと違ったものでなからにゃいかん。もっとましなもんでなからにゃいけない。私は今日は十二節を「神に会おうと思えば、庭の口を外へ出てみよ。空が神、下が神」 これはお道の信心でいう、いわゆる神観なのだ。「金光教の信心、神さまはどんな神まを拝みよるですか。」と言われる。そこでこの十二節を頂くと、「ははあ、天地を神さまとして拝みござるばいなあ。」ということがわかる。外へ出てみよ。空が神下が神。だからそれでわかることはわかる頭で。
けれどもそのわかったのではなくて、神さまをそこに。「神に会おうと思えば」とおっしゃる、本当に会った実感がそこになからなければ、もう信心ではないのです。庭の口を外に出てみてです。本当にそこに神さまの姿を感じるということが、本当に神さまに会ったということなんです。ようにですそんならここんところを、今日は「神に会おうと思えば」というところを、神を心に感じようと思えば、というふうに今日は皆さんに、聞いて頂いたわけですね。
神を心に感じようと思えば、今申しましたことを言うと、いつも人が喜ぶようなことばかり思え。神さまの心がわかったら、神さまのお喜びになるようなことばかりを思え。もう即、そこにはです。神を感じることが出来る。庭の口を外に出てみよ。空が神下が神。そこに、神さまを感じることができる、とこういうわけなんです。そのためにはです。私どもの信心の一段一段信心を進めてまいりましてです。
私が有り難いと思うのと皆さんが有り難いと思われる、思いの段が、例えば違うとするならです。私は信心の格が皆さんより、少し上だということになります。昨夜テレビの中で、天地茂が言っておりますようにです。「この世の中にはですねえ。人間の運命というものはです。人間自身ではどうにも出来ないものがある。何かわからんけれども糸のようなものあやのようなものによってです。
私どもが支配されておることを感じる。それを神というのかもしれない。」と、こう言っておる。これはお芝居のせりふなんですよ。だから私どもはそれを、神と言っているんです。だからその神の心がわかるところに、神の心に添おうという信心が生まれてくるわけです。その神のんなら心というのは、「氏子信心しておかげを受けてくれよ」というのなんです。「我が子の可愛さを知って、神の氏子をお守り下さる事を悟れ。」とおっしゃる神さまなんだ。
子供が可愛ゆうてこたえんように、神さまが私どもが可愛ゆうてこたえん。だからと言うて、先程から申しますように、神がここにへんまんしてござっても、神さまの中にあっても、十一節の、「神は、天地の守じゃから、離れることは出来ぬぞ」とおっしゃる。これは神観です。お道でいう神さまは、そういう神さまなんだ。そういう離れることは出来んぞとおっしゃる神さまがです。
氏子があれこれと、心を迷わせたら、神がそこには行けんと、おっしゃる。あれこれと迷うたら。神さまは、ずうっと守ってござるとならば、こう思いますけれども、なるほど、守ってはござるけれども、その神さまの働きを受けることが出来ない。私どもが、迷うて、あれこれと迷うておったら。親先生がこうおっしゃったから、そうだと一心に定める、腹に決める。そこにもうすでに、神の働き神さまがそこにいって下さるようなものです。神の働きがそこから始まるのです。
そういう神さまをキャッチするということがです。私どもの心でキャッチすることが、今日、私が、「神に会おうと思えば」をです。神を感じたいならばとこう申しました。神を感じたいと思うならばです。とにかく例えば昨夜私が枕元のスタンドを今朝まで。だから、そのまま眠っとりましたからつけっぱなしでした。ただその電気スタンドをつけたということだけが、客殿の風呂に入っておられるお客さんの事を思うてつけたその事がです。感動になって表れてきた。
だから、その感動は信心の神格によって違うということなんです。阿倍野の先生の「金光さま、おかげ頂きましてありがとうございます。」と有難うございますと言わっしゃる、そのありがとうございますがです。あの、千人の信者を人をひきつれて、御本部にお参拝になっておられる阿倍野の先生の「有難うございます。」とです。四十人か、五十人かをつれて参って私が言う「金光様、ありがとうございます。」
とはもうだだ目が違う。それこそ千両役者でもかなわんような「有難うございます。」が言えれる内容というものをです。私どもが頂かねば。そこにです。それがたの神さまを感じることが出来る。今日は「神に会いたいと思えば、」というところを神を感じたいと思うならば、ということを申しました。そして、神を感じたいと思うなら、神の心をまずわかれ、そして神さまがこのような思い方をしたりこのような事をしたりすりゃあ神さまが喜んで下さることがわかったら。
それを躊躇せず実行せよ、ということを申しました。本当に自分が喜びたいなら、おう人が喜ばれるだろうと思われる事ばかりを、思い続けよと申しました。自分の心では、あれが、あいつがと言い、思いよってから、そして自分が安楽な心になろうとか、喜びたいと思うたって、そりゃあ無理な話だ。だから、私どもがいかに、何事にも信心なれよ、何事にも真心になれよということ。本気でですねえ。
今日は、皆さん、もう、人がこうしたり、こう思うたりすればね。こういうふうに思うてやれば、人が喜ばれるだろうと思うことを、一生懸命思うてごらんなさい。必ず、今日は一日そう云う喜びが尽きないと思う。今日の喜びが実は本気で、信心を一段一段、お育て頂くことによって、それが大変な、いわば天地に感動を喜びを呼ぶような、私は喜びをね感じさせて頂けれる生活、信心生活とは、このようにも有り難いものだ、という体験をひとつ作って頂きたいと思うのです。
どうぞ。